待たせる身が辛い

躁鬱 首の皮一枚大学生 レズビアン

2019/1/23

深く傷を負っていた。

 

自らの心境についてまめに文字に起こす方なんだけれども、それすら苦痛になる時が3年に1回くらいある。文字にするという事は自分の心を検分する事になるわけで、自らの状況と感情を言葉によって客観的にする事に耐えられないのだ。そういう時が久し振りに訪れていた。

今現在も治っていない。傷口で言うなら血が止まった程度か。恋愛が関わるコンテンツを拒絶するようになって気づいたのだが、世の中にはラブソングが多過ぎる。聞ける音楽がなくなって驚いた。昨年末に米津玄師にハマってそれこそ「Lemon」もめちゃくちゃ聞いていたのだが、全く受け付けなくなった。一言一句同意だ。忘れられたくないのだけは違うか。これはそりゃあ売れるはずだわな。

 

彼女が居たから僕は死んでいなかったわけで、それを苦しく思ってもいたのだから、あぁこれでやっと死ねるなあ、と頭では思い付く、のだが、いざこうなるとそんな気も起きないもんだな、というのを最初1週間くらい感じていた。行動力というものが完全に失われていたように思う。静かだった。静かに感傷に浸るというか、力なく横たわるといったような、そんな感じだった。

今はよく分からない。ビアンの出会い系アプリを久し振りにインストールして、ぼかしてはいるがまともに顔写真も載せてプロフィールもしっかり書いてみて、翌朝起きて消した。なんかもうどうでもいいなと思って入れたが、もしこれを彼女が見ていたらと思うと耐えられなかった。まだ君の事が好きです。まだも何も、愛情が歪んだり消えたりして別れた(別れたって文字にしたくねえなあ)わけじゃないのだから、そりゃあ好きなままだよ。それを伝えたのだから、吹っ切れたのかと思われたら死ぬ。彼女がアプリを入れていても死にたいが。そう思うと本当に、入れるべきじゃなかったなあ。狭い世界なんだからすぐ見つかるだろ。ヤケクソを止めろとは心が定まらないので命じられないが、まあやり方を考えろといった所か。

未だに彼女の事を思うと発狂しそうになるが、思い出す時間が短くなっていっているのも事実だ。時間が経つのは残酷だというのは本当だった。それで血反吐を吐くことになったとしても、片時も忘れたくはないのだ。愛していると告げたし真実愛しているのに、……。

彼女も僕の事が変わらず好きだと言ってくれたが、きっと僕ほどではないというか、優しい親愛に変わったのだろう。恋情ではなく。それで交際を続けるのが心苦しくなった、という訳で。そう聞いたからそれを信じる事にした。信じる。強い決意による。じゃあ連絡取ってもいいんじゃないか?という思い付きが生まれるのだが、まあ既読がつかないとかブロックされてる場合に心が無理になるのはもちろんのこと、返事が返ってきたとして、その言葉にブレブレになって僕が強く復縁を迫るのは結構ありそうな線である。やめろやめろ。良いことないはずだ。彼女が忙しいのは確かだし、まあ僕への情も薄れかけていることだろうし、縋り付いて受け入れてもらう形では僕の立場が下になってしまうから、その意識を持ちながらでは対等な関係は築けず、何も主張できず向こうの要求を永遠に呑み続けることになるな。まあ今更だが。結局、僕は大した自己主張が出来ないままだった。これも僕が彼女の望みを叶えたというか、まあ僕は本当に別れたくなかったのを彼女に押し切られる形で、というアレね。

重いんだろうなあ。いやまあ、それはそうなんだろうきっと。べったり行きすぎて親友から拒絶されたことがあるので頼るのが怖い、と彼女に話した事があったが、結局また重いんじゃねーか!!ウケんね。適切な距離感、分からん。分かんなくない?他人との適切な距離感を完全に了解している人間とかいる?最強というか、人生向かうところ敵なしなのでは。

 

彼女の話はもうここらで一旦置こう。午後から友人に会うのにテンションが人と話せる感じじゃなくなるぞ。友人もなあ、わざわざ昼食に呼び出してくれたのはまあ、僕を心配してのことなんだろう。ありがてえ話だ。こうなって初めて、いやまあ初めてではないが、友人たちってやさしいなあ、と素朴な感情を抱いた。思った以上に話を聞いてくれる。

そしてまた、アドバイスって物凄く慎重にしなければいけないものなんだなという気づきも得た。生きるか死ぬかの苦しみを抱えている人に対して、話を聞いて数十分で思い付いた助言というのは、失礼にもなるものだ。浅い。当人は四六時中そのことを考えているわけで、だから、そんなのとっくに思いついているしそれが出来ねえから困ってるんだろうが、となったりする。あるいは、伝えられていない情報もあるわけで、ただ具体的な対処法を考えるだけでは足りない事も多々ある。大体の場合、人の心は色々な、本当に色々な事情が絡み合っているので、全てを説明する事は不可能だ。そういう時、目先の話にズレ込むと、例えば僕が最近経験したものだと、僕が抑鬱でアルバイトなんか出来るわけがない、しかし両親がそれを責める、という話をしたら、どんな楽なアルバイトがあるかという点に持っていかれ、友人は派遣バイトのサイトを見てへ〜こんなのあるんだ、と楽しくなっていて、いやそこじゃねえんだわ……と虚しくなった。僕が話したかったのは鬱に理解のない両親のこと、延いてはこんな調子で就職など出来るわけがないのでは、という将来の不安などであり、アルバイトが出来ないのは僕がそれどころではないから、ただでさえいっぱいいっぱいなのにこれ以上重荷を増やしてたまるか、という思いからで、これなら楽なんじゃない?とかそういう問題ではないのだった。何というかままならねえなあ、伝わらないもんだなあ、と思った。コミュニケーションは難しい。なんだっけか、氷山の一角みたいな、他人の悩みマウンテンの頂上だけ見て思い付いた事をそのまま口にすると、相手に傷を負わせる事になる。隔絶を感じる。虚しい。この人健康だなあ、と冷静になる。羨ましい限りだよ。まあ深刻な話というのはどうしてもしにくいもので、大体わかりやすい事しか話せない。するとその事象に対しての具体的なアドバイスが飛んできて、憤りを感じたり脱力したり、まあそんな感じの負の感情に陥るわけだ。他人は他人だ。その事が肌でわかってきた。結局、自分を救えるのは自分しかいない。やっぱり、そうなんだ。悲しい事だ。孤独だ。人間は、すべて独りなんだ。自分がもう一人居たらいいのに、と思う。二人で暮らしたい。僕は扱われたい扱い方があって、扱いたい扱い方もあるのだから、どちらも自分なら満足感2倍である。たぶん、傷つく事も少ない。自分の事は時々嫌いだが、時々好きなので、なんかトータルで上手く行くんじゃなかろうか。自分への攻撃と弁護は同時に在るのだから。もうそれでいい。それで構わない。

 

昔の自分のことを思い出す。日記みたいなものを中学生の頃からつけているので、その頃からの軌跡は分かる。それまでは自我というものがあったんだろうか、果たして。思い出せないだけで、何かしら感じたり考えたりしながら生きていたとは思うが。高校3年生の時もかなりメンタルヘルスは真っ赤っか、な感じだったな。大学入って1、2年、特に1年生の時はむちゃくちゃ健康だった。すごいな。そう思うとやはり、躁鬱なのかなあ。躁というか、体感的にはただ「まとも」な時期がある、というだけだが。まともになりてえなあ。反復性鬱なんじゃないか?と思ったりする。ラミクタールって効いてんのかなあ。適合したので飲み続けているが、効果が分からん。初めての精神薬だから比較もできない。飲み忘れた時を思うと、あまり変わりはないような気がするんだが。

 

いつものことだが、思考の流れをそのまま写し取っているようなものなので、切れ目がなく、改行ができない。読みづらいことだ。