待たせる身が辛い

躁鬱 首の皮一枚大学生 レズビアン

夢女子、苦しい

とあるゲームの人間に恋した。初めての感情を知った。生まれたて夢女子。

 

今までも乙女ゲームは好きだったが、あくまでもヒロインに憑依して二人の恋愛を応援する、追体験する、背後霊としてときめく、という楽しみ方をしていたように思う。その二人だからこその出会いがあって、二人が育った環境や抱えた事情があって、それが活かされたシナリオだからこそこの二人の恋愛が輝くんだよ……という感じで、「ストーリー」を楽しんでいた。やはり、ストーリーがいいからそのキャラクターにもハマる。今までも大好きになった乙女ゲームのキャラクターはいたが、その時は「私=ヒロインちゃん」として好きだった。

 

今回は違う。一味違う。知らないぞこの感情は……と困惑した訳は、「ヒロイン」ではなく「私」が彼に恋したからだ。

作中世界に「自我」が割り込んでしまった。ヒロインに自己投影して愛されるのを楽しむのではなく、「私」が彼と恋愛関係になりたいと思い始めている。そのため、自分の中で色々なものが破綻しかけている。

 

自覚するきっかけは何が一番分かりやすかったかって、アニメの担当回で彼と公式ヒロインがいい感じに夜デートをするのだが、それを見て「ウッ…………」となってしまったのだった。別にこの回は初見でもなんでもなく、昔は「あ〜めっちゃ最高🙏」とか鼻息荒く見れていたのが、彼の顔が見たいな……と久し振りに見返したら物凄く気が沈んでしまった。女性をエスコートする彼はめちゃくちゃカッコよくて最高だったのは確かなのだけども、「あなたの哀しみを背負わせてほしい」「はい……」のやり取りにはなんというか、心が……負けてしまったというか……「えっ結ばれちゃったじゃん……」と思ってしまった。推しがアニメで優遇されていたら嬉しいはずなのに、今まではそうだったのに、変わってしまった己を知った。

原作ヒロインの事は好きだ。もちろん好きだ。彼女が居なくては彼らは輝けないのだから。いやしかし、しかし、好きだけど、どうしても……どうしても……「負けた」と思ってしまう。ヒロインに「成る」ことができない。別人だとみなしているからこういう事態に陥る。原作ゲームでもそうだ。彼のルートを進めて甘い展開にヒャーッッ……!!と赤面するのだが、ヒロインと彼が二人三脚で仕事をする展開には、どこかで心が凪いでしまう。良いストーリーだ。間違いない。面白くて熱い。だからこそ、この二人の「運命力」に心が負けてしまう。彼の運命の人は公式ヒロインちゃんです。付き合うまでの過程も、当たり前かもしれないが公式の彼×ヒロインのストーリーが一番素敵だ。恋を捨てて夢を追おうとする彼とどうやって付き合えっていうんだ。というか、このヒロインだからこそ彼は好きになった訳で……。夢女子なので自分と彼の「世界」を構築する訳だが、どうやって出会いどういう経緯で付き合ったか?というとても重要な点を私は深めきれていない。だって、想像がつかない。なぜ彼は私を好きになったんだ?私にはヒロインのあの子と違って才能も何もないのに……。ドジでひたむきで素直で一途な努力家、そんなヒロインに私はなれない。そりゃあね、そんな子好きになるよ。そんな子がずっと側で自分について来てくれるんだもん。私だって好きになるよ。というかそもそも私レズビアンなんだよ。そう、ここにもう一つ混乱の種がある。レズビアン、男性キャラクターの夢女子を自我でやっています。二次元と三次元で性的指向や性的欲求のあり方が異なる人はまあ相当数居るだろうから私もそうなんだな、と思うことで流しているが、どうやら私は対二次元ではヘテロセクシャルなのかもしれない。まだガチ恋女性キャラクターに出会っていないだけかもしれないが。

 

ねえ公式ヒロインがいる人を自我で好きになってしまった夢女子の先輩方ーッ!どうやって心を保っているのーー!?!?

 

ふと、「私は誰からも祝福されていない」と思って泣きそうになる。普通にこのジャンルが好きなのに、その作中世界を捻じ曲げて勝手な妄想をしている。腐女子は仲間がいる。同じCPを好きになったらその話を人と共有できる。夢女子は孤独じゃないか?自分と彼の話は自分の中にしかないので、他者からの供給は望めない。夢女子、強い。強くない?強さが必要だよ夢女子。他人の解釈(公式も含む)にめげず自分の世界を保ち続けなければいけない。自分の作り出した世界をまず自分自身が強く「信じる」という事が何よりも肝心なのだと知った。私しか居ないんだよ、理解者は……。

彼との日常をツイートして、段々この世界の輪郭がしっかりして来たなと思っていると、ふいに「どうして今隣に彼が居ないんだろう」とマジで悲しくなる。幻覚、狂気、地獄、と夢女子は自分のツイートに付けることがあるが、確かだ。幻覚であることは分かっているが、でも自分の意志で幻覚を見続けなければいけない。正気に返ったら虚無感で死ぬ。早く狂ってしまいたい。え?私が彼女だけど?と曇りなき眼で言えるくらいに狂いたい。そうすれば悩むこともなくなる。なんという修羅の道なんだ……推し♡受け♡ってキャッキャしてたあの頃が懐かしい……。

 

弱音はやめよう。俺と彼とのハロウィンを妄想しろ。顔を上げろ。誇りを持て。強く生きろ。

2019/10/15

大学に通えていない。いや違うな、通っていない。

 

どうやらもう一年どころか一年あっても卒業単位が取り切れないようだ。いや詰みかよ。今から限度いっぱいフル単していったとしてもギリギリ間に合わないらしい。そして勿論そんな事は不可能なのだった。ワロタ。終了。

 

今期が始まってちょうど一ヶ月か。最初の一週は出た。いや出てないわ、出た講義も一回も出ていない講義もある、だ。いつもこうだね。絶対に初回は行くべきなんだ、授業方針を聞いておかないと次から行くことが出来ない。僕は。そして最初は行っていた講義ももう行けていない。今更復帰した所でどうなる?と思うと本当に意味が見出せない。だってもう半分終わってるんだぞ。あれはだめだ、自分で美術展に行ったり音楽鑑賞をしてレポートにして来いと言うんだから。いや平常なら面白そうじゃん、となるんだが、というか前はそう思って履修したんだが(前回落としたので今回自主的にリベンジしている)、ここで思い出してほしいのは僕、躁鬱〜!ちゃんちゃん。いやでもこの間まで躁期で行動力自体はあったんだから何とかなったんじゃないか?と思わなくはないんだが、躁になると本来やるべき事とは全く違う方向へダッシュしてしまうので、まあ多分無理だっただろう。僕は躁でも鬱でも大学に通えない。今回の躁は六月〜十月くらいだが、まあ基本的に映画館に居た。一つの映画の応援上映に三十回ほど行った。やべーな。いやでもオタクってそういう事するじゃん。そう思っているのであまりヤバさを感じてはいない、実際。でも「同じ映画三十回くらい観てる!」と言ったら相手がオタクでもドン引きされるだろうな、という事はギリギリ分かる。いやここで自己弁護するけども、五ヶ月かけてるから。五ヶ月も上映してたらこのくらいになるよ。月で割ると六回か。うーん、いや一週間に一回以上観てるな。いや……そうか。結構観ていた。しかし最近はペースが落ちている。八月末とかほぼ毎日観ていたし、四泊五日の合宿を抜け出して一人で名古屋駅まで行ったこともある。五日も観られないなんて耐えられない!もうすぐ終わるかもしれないのに!となっていた。完全に中毒。何なら合宿始まる日の朝も観たのに。まあ、いい思い出だなあ。その日は隣の席の初対面のお姉さんと意気投合して上映後にお茶したりしたので、なんというか嘘ついてまで抜け出した甲斐はあった。何だっけ、ああ躁でしたという話。十月半ば現在、落ちかけを感じている。いや卒業いよいよ無理そうやんけ!wと判明し、母親から「どうするか考えておきなさい」と(いやどうするもこうするも俺が一番どうすべきか途方に暮れてるよ)圧をかけられ、まあストレスがきっかけで鬱転するというのは考えてみれば当たり前の事だ。ギリギリまだ外に出られるというか、家に居たくないので無理やり外出しているとも言うが、なので躁の行動力自体は残っているらしい。いやこれが一番危ないんだよな、分かっている。自分が意外とキレるタイプだと知った。うるせーー死ねばいいんだろ死ねば!!一生後悔しろ!!と激ギレしてしまって(しかも一度ではない)、そういう時はマジで本気で死ぬつもりなのだが、後から思い返すといやヤバ〜メンヘラじゃん〜(メンヘラだよ。)となる。僕が死ぬのは衝動的な自殺が完遂された時、だと思う。落ち着いて考えると死にたくはないので、未遂に終わってほしいなあと思う。他人事か?いやそんなの理性の及ぶ所ではないからなあ。運ですこれは。まあ大体そういう事が起こるのは自宅なので、確実に死ぬ飛び込みなんかはやらなさそうなのがまだ安心材料だろうか。

 

自殺に失敗すると絶対に身体スペックが落ちるんだって!まあそうだろうな。それは嫌なんだよ、ただでさえ肺活量五十代で背骨曲がらんのに。そう、僕は大学一年で側湾症の手術を受けて背骨をボルトとチタンでガチガチに固定したので背中を丸められないのだ。これ死ぬほど不便。まず映画館や新幹線の座席が合わない。絶望的に合わない。背もたれがカーブしている作りのものは背中がつかないので首で体重を支える事となり、ものすごく疲れる。特に映画がキツい。めっちゃ通ってるけど。肩甲骨あたりで背もたれが終わる椅子にしてくれないかな全部……。あとは車高の高い車に乗り込む時。くぐれない。反って入る。スペースが狭かったら乗れないんじゃないかあれ。あと足の爪を切る時。手術前は意識すらしていなかったが、覗き込まないと切れないんだあれは。あと地味に嫌なのは、うつ伏せで肘をついて顔を上げる体勢は取れない。合宿の夜にお布団でお喋りする時とかに困る。スマホ見たり本を読んだりも出来ない。なんかさあ……何とかなんないの?これ。手術して二年半でもう嫌になってきてるんだけど、一生これか〜そうか……。研究が進んで背骨が動ける固定方法が早く開発されてほしい。そしたらまた背中を切ってもいいから。わ〜生きててよかった〜!と言わせてくれ。頼む。本気で。

 

てか金無さすぎてウケる。今月あと現金は三千円です。カードはあるっちゃああるけど普通に使い過ぎて怒られているというか、一度もう限度額ですと言われたので自重したいんだよ。いやでも夏に使いまくっていたのは映画のチケットをカードで買っていたからで、もう大丈夫なんじゃないかなあ。あの映画もいつか終わると考えると気が狂いそうになるが、同時にやっと解放される……という安堵もある。交通費と電池代も意外とバカにならない。

金がないということは人と遊ぶことができないという事で、いよいよ人間関係が絶えそうだ。いやあ……いよいよか、という感じ。家族としか話さない生活が始まるぞ。いや家族と顔合わせたくないんだよ俺は……。すると外に出ざるを得ない、どこかに滞在するには金がかかる、ハイ詰み。えっ何でこんな金がないんだ?何に使ってる?家計簿をつけるべきかもしれない。

 

いい天気だ。夏の終わりが一番好きだ。この気候が長く続いてほしい反面、早く冬服が着たいんじゃという気持ちもある。このブログの更新は冬に多いが、日差しが弱まり日照時間が少なくなり、セロトニンの分泌量が減るから鬱になるんだこれ。科学的に分かった。冬季鬱病の理屈。

 

ニートか。はあ〜〜ニートか。堕ちていくなあ。大学を中退したところでアルバイトも出来ない奴は就職も出来ないに決まってんだろ。現実的に僕は休学に流れ着きそうなんだが、休学中ってみんな何してるんだろう。鬱期はともかく、僕にはヤッホー躁だよ〜!!レッツゴ〜!!イェイイェイイェイ!!という時期があるので、それはなんかもう遊んでいるだけでは?となる。いやそれは今もそうか。どうせ行かないなら休学したら?学費も節約できるし、とは思う。いやでも休学したらいよいよそのまま大学には戻れないんじゃないかなあ、とも感じている。家に軟禁されたくない。いや躁鬱さあ、他者からの見え方が悪すぎない?躁期も浪費がヤバかったりキレやすくなったりでかなり困るんだけども、明るく活発なので病人として容赦されない。容赦してくれ。

てか「大学中退」を僕が受け入れられない。高卒だよ。いや高卒……高卒てお前……。進学校の高校を出ているので、周りに高卒の人間が居ないんだよ。受験期の苦労が水の泡か?いや言うほどそんなに勉強してなかったけど。人間関係が大爆発しメンタルも爆散したのでそれどころでは無かった。なんかあの時に何か手を打っておくべきだったんだろうなあ。ボーダー感が凄かった。自傷こそしていないが。ねえ今僕の手首に傷一つないの奇跡じゃない?痛いのが嫌なので。血が出るほどの切り傷、やだよ……絶対めっちゃ痛いもん……。

優等生であることがアイデンティティーだった。今となっては昔の話だが。小中学生の頃の記憶ってずっと残るよなあ。はあ〜高卒ですか。そうですか。死か?いや死ぬな。学歴で人を見るな。他人への目の話ではなく、僕が僕を許せるかという話だ。他人の学歴については別に何とも思わない。あー専門とか行けばいいのかなあ。やりたい事とかないけど。絶対僕は将来貧困に苦しむんだろうなあ……いや収入が少ない躁鬱はやばいよ。借金からの破滅あるよ。わはは。まあどうにもならなくなったら死のうな。そう、その死の前段階の妥協をたくさん見つけていかねばならない。許しを与えていかねば。出来るか?そんなこと……いや、僕はなるべく僕を死なせないようにしたい。一応そう思っている。三十代の楽しみとかもあるはずだ。僕は僕の変容を見ていきたい。

2019/6/16

ふとパソコン右下に目をやった。6月16日。えっ6月16日って、私が去年彼女(だった人)と出会った日じゃん。

ついにこの日が来ていた。突然に出くわしたという感覚だ。とりあえず居ても立ってもいられず「記事を書く」を押した。いつも以上にノープランだ。

 

レズビアンの世間話というかぼやきとして、「彼女ってどこで出会うの」というアレがある。自分はかの人(なんとも呼べない、呼びたくないのでかの人と呼んでしまう)とインターネットで知り合った。しかもかなり特殊な知り合い方をしたと思う。参考にはならない。共通のもののファンでお互いビアン、という前情報を共有して友達としてのやり取りが始まった。そしてそれはかなり「遠かった」というか、ぼかすとうまく言えないなこれ、ううんと、私は付き合うまでかの人の本名も顔もハンドルネームもLINEも普段の書き言葉も知らなかった。付き合ってから全部知った。なかなかないよなこれ。

付き合い始めた日もどうせ来月やってくるからその前の話をすることとしようか今日は。

 

前提としてというか、自分は未練タラタラとまでは言わないが、なんだろう……。引き摺っている、というのは間違いない。かの人はまだ、というか当然のことだとも思ってしまっているが、ずっと自分の中に居る。確かに居る。頻繁に意識に浮かぶ。僕はスマホに残ったかの人との写真をほとんど消していない。手付かずだ。僕の友人には朝方に彼氏と別れのLINEをして二度寝する前にそのまま二人の写真やデートの時の写真をカメラロールから全消去し、LINEのトーク履歴もクリアしたという、なんというか……僕から言わすと「すげえ」人がいるのだが、まあ色々な価値観や感覚が会う友人だとしてもこと恋愛においてはかなり対極に位置する、という事があるらしい。

何を書こうか。どんな言葉を尽くしても不誠実というか、何も言ったことにならないというか、蛇足というか。

あなたへと渡す手紙のため
いろいろと思い出した
どれだって美しいけれども
一つも書くことなどないんだ
でもどうして、言葉にしたくなって
鉛みたいな嘘に変えてまで
行方のない鳥になってまで
汚してしまうのか

――米津玄師「vivi」

これを思う。これだなあと思う。正直言えば、僕はこの日にかの人に当てた文章を僕らが(僕らが、とまとめて呼ぶのは不思議な心地がする)出会った場所に投稿しようかと考えていた。かの人にしかわからないパスワードをかけて。

ただ、書けなかったのだ。何も浮かばなかった。思い出話をするのか?なんと言って始める?どう締める?お元気で?いつかまた会いたい?まだ大切な人だよとか言う?恐ろしかった。決められない。僕は1月のまま特にまだ何も決まっていない。今誰かにかの人と付き合っていた話をするとして、「まあ今となっては」とかいう総括で終わらせられないのでかなりフワっとした話になってしまうだろう。分からないから。この状態の僕がかの人に相対することはできない。まだ。あの時間をどう位置づけて意味づけていいのかがまだ分からない、僕の人生において。

 

語らないほうがいいこともあるのだろうか。野暮というか。「どれだって美しいけれども 一つも書くことなどないんだ」、まさに。美しい日々だったなあと一人で味わっておけばいいのだろうか。あぁなんかそんな気がしてきたな、割ときれいに僕は去れたのだから、そのままの方がいいのかもしれない。何度も何度も取り出して咀嚼しなおすのは、それを表にするのは、下品なのかもしれない。太宰も言っていた(おれは太宰に心酔しているので思想に取り入れがちだ)、その時に面白く読めたということが幸福感であり、それを先々まで持ちこたえなければ堪らないというのは貪婪、淫乱、剛の者であると。二日酔いを求めるのは不健康だと。うん、そうか。そうなんだなあ。そういうものなのかもしれないなあ。

「鉛みたいな嘘に変えてまで 行方のない鳥になってまで 汚してしまうのか」、うんうん。僕は別に手紙を書かなくても、よい。よいのだ。だって、書きたいこともないのだから。

確かなことは、僕がこの日を今年も覚えていた、何か言いたくはなった、ということか。

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

高校時代から太宰治に入れ込んでいるわけだが(このフレーズ、今まで一体どれだけの人が使ってきたのだろう)(それこそ50年位は言われ続けていそうだ)、なぜならビビっと来るからである。きっと太宰治にハマる人はみんなそうだ、彼に、彼の作品に、身体の芯が共鳴するからだろう。

 

ブログタイトルに拝借している、「待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね」のエピソードが特に自分は好きだ。そして、この話を聞いた時の反応はきっとふた通りある。そこも面白くて好きだ。

 

昭和11年の12月のことである。家にいると仕事ができないと言って太宰さんは、井伏氏の知り合いである小料理屋を介して、熱海に執筆の為の宿を借りることにした。
 何日かして、太宰さんは「お金がない」と当時の妻である初代さんに連絡をする。大方、酒代に使ってしまったのであろう。そこで初代さんは、小説家仲間の檀一雄氏に「お金ができたので持っていって欲しい」と依頼したのだ。
 檀氏は、太宰さんの元へお金を持って行くのだが、結局は一緒になって酒を飲み、その日のうちにお金をすべて使ってしまう。まさにミイラ取りがミイラとなってしまったのである。だが、それでも彼らは驚くことに、その窮地を寧ろ楽しむか如く、放蕩に耽るのであった。
 そして、とうとう3日目の朝、太宰さんは「菊地寛の処に行ってくる。君、ここで待っていてくれないか」と言い残し、単身東京へと帰って行く。お金を借りに帰ったのだ。壇氏は、心細い限りであったが、仕方がない。太宰さんを信じて待つ他は無かったのである。
 しかし、太宰さんは戻ってこない。何日かして、檀氏は小料理屋の親父と二人で東京へ行ってみることにした。
 果たして、太宰さんは、井伏氏の処にいた。呑気に将棋など指しているではないか。
「ああ、檀君」思いがけない到来に、狼狽の声をあげる太宰さん。
 その姿を見て、檀氏は激怒。「何だ、君。あんまりじゃないか」と怒鳴り声を上げたのであった。
 太宰さんは、その怒号にパラパラと駒を盤上に崩してしまう。指先は細かに震え、顔からは血の気が失せてしまっている。オロオロと声も何も出ないようであった。
 その場は、井伏氏が何とか収めた。小料理屋の親父も、数々の勘定書を残し、渋々と引きあげていった。
 ようやく、場は落ち着きを取り戻した。しかし、ここで檀氏は、太宰さんから思いもがけない言葉を聞かされるのである。

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響きを持っていたことを今でもはっきりと覚えている。~檀一雄『小説 太宰治』より

https://note.mu/furoyama/n/n11cf68cc3afd

 

「は?w」と思うか?そちら側の反応の方が多いのかもしれない。走れメロスの作者本人はこうなのかよ、と。

 

自分などは「待たせる」側である。たいてい、そうだ。周囲の人々には何かしらの御面倒をお掛けして生きている。鬱とゼミの発表時期が重なり前日までレジュメは白紙、駆け込みで教授に「最大限の努力はしてみましたがどうにも出来ません、読めず書けずなのです、何卒お情けを、どうかお頼み申し上げます」と必死の陳情、順番の延期。期末レポートを提出せずに単位を出してもらったこともある。頭が上がらない。

友達にも頼りっきりだ。まだ病院にかかる前、一緒に受けている講義を一人欠席しまくる自分を「連絡無しに来ないとか、そういうの私苦手な方だから」と断罪した友人の声、あれをよく覚えている。そうでなくてもプリントを取ってもらったり次回までの課題を聞いたり、なんとまあ人のご厚意にすがっていることか。遊ぶ予定を電車で倒れてドタキャンする事も結構ある。

 

なぜ、普通にやれないのか。謝罪の日々。なぜ。自分は。嫌悪。時には、憎悪。

 

待つ身も辛いだろう、待たされて迷惑を被っているのだから。いやしかし、しかしだぞ、待たせる身も、辛い。確かに、はっきりと、辛い。普段から面倒をかけている師匠にこの上借金の申し出ができるか?なんと言えばいい?その脂汗の苦しさ。呑気に将棋など指してしまうのがリアルだ。焦りがある時こそ、日常的なくだらぬ事をしてしまう。頭の働かない時間稼ぎ。そして、更に、言い出せないことによって友人を待たせている。日が経つにつれ、友人は居た堪れなくなっていくことだろう。親父から向けられる目はどんなものだろう。その重圧。

待つ身は、怒ればいい。待たせる身は、謝るしかない。待たせているのだから、この上面と向かって自己弁護は出来ない。だが、この身悶えはどうすればいい。

何も感じない訳がない。問題を抱えているのは自分なのだ。罪悪感、自責、疎外感、脱落。待つ人は良い、そんな相手と居なければいい。付き合う人間は選べる。こちらはいつも、待たせてしまうのだ。己からは逃げられない。どれだけ憎くても。自他への苛烈な感情が胸の内で渦を巻く。炎。

 

そこを拾うのが太宰だ。だから大好きだ。「こちら側」なんだ。強い反撃の響きを持っていた、そうだろうとも。黙るしかない我々の、しかし、殺してはおけぬ思いだ。正論に負かされる我々の、行き場のない言葉だ。

太宰に向かって「ダメ」とか「クズ」とか、今までどれだけそんな言葉が投げられてきたのだろう?だが、自分もダメでクズな訳で、太宰は星なのだ。この種の苦しみを汲み取って文に著した人が居た、その事に救われる。救い、そう、太宰治は救いです。太宰治は今までも今もこれからも、誰かの救世主だ。陳腐か?いやいや、事実だろう。

 

「芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ。」

太宰治『畜犬談』

 

 

2019/5/24

「性格…日による」みたいな、小学生のバトン回答みたいな事を地で言ってしまう気分だ。日によるんだよなあ。躁鬱なので、と言ってしまえば身も蓋もないが、社交的になったり寝込んだり話したがりになったり視線で殺されそうになったり、まあほんと……日によるね。ね〜。

 

社会の一員として、どうなん?現状。という所に思いが至ると死を迎える。おれはおれで勝手に生きてやる卍という時と、穀潰し死すべき、という時と。

今の事だけを話そう、人間には今この瞬間しかないんだ。何がしたいか分からない、というテンプレ若者なので、何でもしてみるしかねえんだろうな、と思う。何でもやってみるべき。液晶に並ぶとなんとも陳腐な文字列で涙も出ないが、本当のことだこれは。「自分らしさを大事に」みたいなアレはよく聞くが、さて自分らしさとは?という。僕はどうせ僕の顔を肉眼でまっすぐ正面から見ることは叶わないので、それを追求するのはさて置くとして、硬直したくないという事だ。それに縛られたくない。変化を恐れたくはない。「これは自分らしくない」という、「キャラじゃないから」という拒絶をしたくないという話。

キャラと言えばサークルの合宿の夜に友人が話していてスペシャルそれなと思ったのが、「人をキャラクターにすると見えるものも見えなくなる」みたいな話で、いや……ほんとこの子好きだな……となった。「○○な人ランキング」とか楽しいけど、人間は多面的であり一言で語るなんて不遜が過ぎるのだ。語れ。人、人についてちゃんと語るべき。言葉を尽くして語るべき。ジャンル名をググって済ますなんて勿体無さすぎる。あなたは「(L)gbt」さんじゃない、「あなた」である。

脱線。なんだっけ、ああそう、キャラじゃないから……とか言いたくないという話。何でもやりたい。やれる時は。重要。やれない時は何もやれないので。だからね、クラブイベントに行くか迷ってるんですよ。根っからの陰の者な自分がそんな所に行くことを検討する日が来るとは全く思っていなかったんだが、まあ人生というのは分からんというか、転がるに任せるというのは面白いなあ。周りにいる人が増えると、色々な話題が舞い込んでくるので本当に面白い。ありがとうみんな。で、クラブだって。てかクラブって何だ。なに?あれ。実際なにしてんの?中で。踊るの?踊れた事ないなあ、人生で一度も……。整理しよう、行きたくない感じの気持ちくんは手を挙げてください。酒が飲めません。外見に自信がありません。陰キャなのでノリが怖いです。口説けません。世間知らずと思われたくないです。恥をかきたくないです。治安が不安です。うんうん、このくらいか。次は行きたさくん手を挙げて。恋愛の香りがある女性と話したい。ギャルを見たい。出会いを探してもいいのでは?という己への許し。話のネタに。名古屋で開催するんだし折角だから行っとけ。あとで行けばよかった!となるかも。そんな感じか。うーん、そんな感じかあ。

結論、出ねえ。出ねえけども、行くかどうかは決めなくてはならんのだ。あーー、え〜〜……??人に聞くか。ちょっと友人に聞いてみるか。判断材料の一つとしてそれはアリ。マジ?!意外〜!!とまず言われるに1000円賭けよう。本気の価格設定。というか、友達に会いたいな。会いたさがある。小学校から大学現在まで進路が丸被りのマブダチくんが居るけど、最近いよいよ顔を合わせないのがデフォになってきて不自然な気分だ。彼女は単位をあらかた取り終えているので。え〜ちょっと、会いたみ〜。会いたみある〜。感じ方重なるポイントが多い(夜ご飯にいくらまで平気で出せるかとか、オフの推しまで知ろうとするのは強欲だとか、店員さんへのビビリ度とか)のでストレスが少ない。疲労しない。素晴らしいことです。たまにここは違うなあと思う話題はあるけど。まあドッペルゲンガーじゃないので。自分と同じ人間はいないという孤独を受け入れて生きていこうな。

 

「ウチら棺桶まで永遠のランウェイ」を読み終わった所なのでこんな感じだ。ギャルの精神性を尊敬している。人のエッセイ、と言うのか?思想を聞かされると、自分も話したくなるのが人間ですね。うんうん、今日の文体はそこそこ柔らかく自然な感じがいいと思うよ〜。文体、生きている。「日による」。ウケるね。まさしく僕の文章って感じじゃん。

本を読むべき。太宰を読もうもっと。あ、あー卒論……卒論書かないと。しまったな、嫌な事を思い出した。「コツコツやる」という事を人生で一度も達成できたことがないのでもう地獄へのベルトコンベアに乗ってるんだおれは既に。釜が見えてる。煮えてる釜が。卒論一夜漬けは最強すぎんか?逆にそれが出来たら一生一夜漬けの生き方でも自信つくかもしれない。特技じゃん。すべての書き物を一晩で形にできます。天才じゃん。

 

躁の時の自分の尻拭いをする生活だ。何かに申し込むのはやめてくれない?ねえほんと。今日明日で出来ることにだけ飛びかかっていってくんない?TOEICの勉強マジでしてないんだが。最初の2週間くらいしか。明後日じゃん。ビビるんだが。最近英語聞いてもないな。ヒューとザックの映画、手の届く範囲のものは見終えてしまったからなあ……。

 

退屈しているのかもしれない。何する?何でもやってみたいんだ俺はよ。ゲーム実況やってみたいよなあ、いつか。いつかってお前多分今が人生で一番暇だよ。斜陽コンテンツに今から飛び込んだって伸びねえだろうとか、女の声じゃファンは付かねえとか、まあやってみないと何ともなあ。変身願望がありそう、自分。新しい人格で成り上がりたい願望か?あるな……あるね。複垢使いということです。僕の躁鬱は多重人格にも似ているよなあ、とたまに思うよ。

 

何がやりたいんだろう。将来的に、とかじゃなくて、今。目先の興味の矛先がブレる。ブレるというか、矛が溶ける。時々。やりたいことなんてないんだよなあ。ね。究極そうね。思い付きでしか生きられない。思い付き即実行期に動き、ゆるゆる慣性が働き、どこかで消える。消す。お片づけをする。以上。

The Greatest Showmanとセブンティーン・アゲインとヘアスプレー

うんうん、ザックエフロンだね。

 

ゲームのキャラクターにハマると大抵その声優のシチュCDを探しに行ったりする気質なので、ひとつのものから派生してどんどん新規沼を開拓していくことが多々あるんだけども、それが海外俳優に及びそうで少し怖い。というか、及びつつある。中の人繋がりというやつ。

 

突然グレイテスト・ショーマンのThe other sideのことを思い出してyoutubeで検索したのがことの始まりだ。公開当時何度も通ったお気に入りのミュージカルだが、いや、こんなん全人類好きでしょ。こんな楽しい曲。メロディーも歌詞も音ハメも二人とマスターの動きも、それからこのストーリーも。勧誘から身内に引き入れ一目惚れまで一曲で駆け抜けるこのスピード感。最高かな?これこれこれ~~!!と鑑賞当時映画館で大興奮したのを覚えている。ミュージカル、かくあるべし。

 

ヒュージャックマンのことは知っていた。いや嘘、そんなには知らない。ただ公開当時、あっ映画のジャンバルジャンだな、じゃあ絶対これも最高の出来だろ…と思っただけではあるのだが、元より俳優…というか芸能人の顔と名前を一致させることが本当に稀な人間なので、これは自分にしてはなかなかすごいことである。

ザックエフロンのことは知らなかった。グレショの俳優陣をググって初めて名前を知った。オタクなのでグレショのフィリップは勿論好きなんだけども(いや上流階級からサーカス経営に身を投じて踊り子と恋に落ちるキャラなんて好きにならざるを得ないよ)、顔がいいな…と思ってふと検索した、したら、いつの間にか「セブンティーン・アゲイン」と「ヘアスプレー」を見ていた。

 

セブンティーン・アゲイン」はprime videoで出演作を検索したら上がってきたのでとりあえずサッと再生ボタンを押したのだが、普通にものすごくいい映画で何度も涙が浮かんだ。高校生の身になって初めて娘と息子と交流を始める、友人として関係を持ちつつも、そのなかで父親っぽい助言をして…。避妊具の場面が特に良かった。ザックエフロンの表情と話しぶりからひしひしと感情が伝わってきた。演技、うまっ(素人の感想)。終盤の娘とのやり取りが好きだ。うんうん、高校生ならこんなの惚れちゃうよな…ベッドのシーン、めちゃくちゃこの子が魅力的でかわいらしくて目が釘付けになった。たまんねえ…。登場人物に入り込める作品が僕は好きなのだけど、この映画はすごく見やすかった。妻との関係もすごく良い…ダンスシーンなんて素晴らしい。すべて良かった。すごい作品を最初に見てしまったなと思った。最初と最後のシーンが同じなのがまた…グレショといい、身近なひとをほんとうに大切にしたかったんだ、と思い出す作品が続いているなあ。あとめちゃくちゃビンタされるザックエフロンはどこかで絶対にウケてるんだろうな。そこをポイントにしてプレゼンしてるファンがいそう。

 

「ヘアスプレー」は名前だけ知っていてううんそのうち見たいな、と思っていたのをこれを機に視聴。自分は起承転結の転が割と苦手というか、つらい展開に弱いので、最初にチャーミングなトレイシーに惹きつけられた瞬間、この先世間でトレイシーが打ちのめされてしまうことになるんじゃないか…とヒヤヒヤしたのだが、厳しい映画じゃなくてよかった。温かくてキュートなミュージカルだった。ママがいいね、これ…。大人が新しい時代に飛び出していく展開、すごく好きだ。最近Detroit:Become Humanを見ていたところだったので、デモの場面にぐっと引き込まれた。黒人差別、アンドロイド差別。そして僕のそばにある差別。昔、活動は遠くの偉い大人がするもので、自分は居間のテレビでこっそりその行方を盗み見るしかないと思っていたのだが、今はよく考えてみれば僕だってプライドパレードで歩けるし、訴訟の署名にも参加できる。意外と身近にあるもんだな、と思い直した。やれることは、やりたい。

ザックエフロンだよ。あまり掘り下げられていないリンクだったが、気取ったウィンクが普通に良かった。悔しい。調子のいいこと言ってんなあ若いなあリンク、と思ったのだが、トレイシーも幸せそうなので良し。顔のいい男のキスシーンは最高。

 

二作を見て思ったが、ぴちぴちだな肌が…。グレショが10年ぶりのミュージカル作品だったと聞いたので、なんというか本当にいいものを最初に見ていたな…と思った。

グレショの話を書こうとしていたんだが、字数が面倒なことになりそうだから軽くに留めたい。これ、どんなミュージカル?と聞かれたら、テンションぶち上げ系、劇薬、と僕は答えるかもしれない。ララランドはどちらかといえばしっとり系だと思うんだが、これはなんか…爆発系というか…。「サーカスのような映画」と評されているのをどこかで見たが、まさにその通りだと思う。息つく暇もないような映像美と最高の音楽。最高がインフレする。今まで人生で見てきた映画や舞台の中で一番激しく揺さぶられたオープニングはこの映画です。雷に打たれたような、とはまさにこのこと。

スピード感がいい。A Million Dreamsでもう僕は泣いた。ほんとに結婚できたんだね…子供もいるんだね…という幸せの涙。このかっ飛ばし感がすごく気持ちいい、すごく好きだ。The other sideもそうだが。バーナムや団員について触れると僕の文章力では収拾がつけられなくなるので泣く泣く省略するが、やはりThis is meは歴史にいつまでも残る名曲だと思う、まあ今更僕が言うまでもないが。この歌を必要とする人は世界中にいる、それは今も、これからもそうだ。これは自分の歌だ、と思える、よすがにして生きられるような歌があることは、どんなに人間にとって慰めになるだろうか。この曲だけはずっとちょくちょく聞いていたのだが、映画の中で前後の文脈と映像つきで聞くと、またなんとパワーが増すのだろう。圧倒される。「There’s nothing I’m not worthy of」、値しないものなど一つもない…そうなんだ、そうなんだよ。ああ好きだなあthis is me…。

 

話が終わらない、締めよう。次に見るのは来年朝夏まなとさんが演じることになった「天使にラブソングを」、それからDetroit:Become Humanでコナー役のブライアン・デッカートさんが出演している「リメイニング」だ。知らずに借りたがこれホラーらしいな。ホラー映画は初めてだ…。来週は「美女と野獣」「ハイスクールミュージカル」「ニューヨークの恋人」を予定。ヒュージャックマンの魅力が今から怖い。クラクラしてしまう。

2019/1/23

深く傷を負っていた。

 

自らの心境についてまめに文字に起こす方なんだけれども、それすら苦痛になる時が3年に1回くらいある。文字にするという事は自分の心を検分する事になるわけで、自らの状況と感情を言葉によって客観的にする事に耐えられないのだ。そういう時が久し振りに訪れていた。

今現在も治っていない。傷口で言うなら血が止まった程度か。恋愛が関わるコンテンツを拒絶するようになって気づいたのだが、世の中にはラブソングが多過ぎる。聞ける音楽がなくなって驚いた。昨年末に米津玄師にハマってそれこそ「Lemon」もめちゃくちゃ聞いていたのだが、全く受け付けなくなった。一言一句同意だ。忘れられたくないのだけは違うか。これはそりゃあ売れるはずだわな。

 

彼女が居たから僕は死んでいなかったわけで、それを苦しく思ってもいたのだから、あぁこれでやっと死ねるなあ、と頭では思い付く、のだが、いざこうなるとそんな気も起きないもんだな、というのを最初1週間くらい感じていた。行動力というものが完全に失われていたように思う。静かだった。静かに感傷に浸るというか、力なく横たわるといったような、そんな感じだった。

今はよく分からない。ビアンの出会い系アプリを久し振りにインストールして、ぼかしてはいるがまともに顔写真も載せてプロフィールもしっかり書いてみて、翌朝起きて消した。なんかもうどうでもいいなと思って入れたが、もしこれを彼女が見ていたらと思うと耐えられなかった。まだ君の事が好きです。まだも何も、愛情が歪んだり消えたりして別れた(別れたって文字にしたくねえなあ)わけじゃないのだから、そりゃあ好きなままだよ。それを伝えたのだから、吹っ切れたのかと思われたら死ぬ。彼女がアプリを入れていても死にたいが。そう思うと本当に、入れるべきじゃなかったなあ。狭い世界なんだからすぐ見つかるだろ。ヤケクソを止めろとは心が定まらないので命じられないが、まあやり方を考えろといった所か。

未だに彼女の事を思うと発狂しそうになるが、思い出す時間が短くなっていっているのも事実だ。時間が経つのは残酷だというのは本当だった。それで血反吐を吐くことになったとしても、片時も忘れたくはないのだ。愛していると告げたし真実愛しているのに、……。

彼女も僕の事が変わらず好きだと言ってくれたが、きっと僕ほどではないというか、優しい親愛に変わったのだろう。恋情ではなく。それで交際を続けるのが心苦しくなった、という訳で。そう聞いたからそれを信じる事にした。信じる。強い決意による。じゃあ連絡取ってもいいんじゃないか?という思い付きが生まれるのだが、まあ既読がつかないとかブロックされてる場合に心が無理になるのはもちろんのこと、返事が返ってきたとして、その言葉にブレブレになって僕が強く復縁を迫るのは結構ありそうな線である。やめろやめろ。良いことないはずだ。彼女が忙しいのは確かだし、まあ僕への情も薄れかけていることだろうし、縋り付いて受け入れてもらう形では僕の立場が下になってしまうから、その意識を持ちながらでは対等な関係は築けず、何も主張できず向こうの要求を永遠に呑み続けることになるな。まあ今更だが。結局、僕は大した自己主張が出来ないままだった。これも僕が彼女の望みを叶えたというか、まあ僕は本当に別れたくなかったのを彼女に押し切られる形で、というアレね。

重いんだろうなあ。いやまあ、それはそうなんだろうきっと。べったり行きすぎて親友から拒絶されたことがあるので頼るのが怖い、と彼女に話した事があったが、結局また重いんじゃねーか!!ウケんね。適切な距離感、分からん。分かんなくない?他人との適切な距離感を完全に了解している人間とかいる?最強というか、人生向かうところ敵なしなのでは。

 

彼女の話はもうここらで一旦置こう。午後から友人に会うのにテンションが人と話せる感じじゃなくなるぞ。友人もなあ、わざわざ昼食に呼び出してくれたのはまあ、僕を心配してのことなんだろう。ありがてえ話だ。こうなって初めて、いやまあ初めてではないが、友人たちってやさしいなあ、と素朴な感情を抱いた。思った以上に話を聞いてくれる。

そしてまた、アドバイスって物凄く慎重にしなければいけないものなんだなという気づきも得た。生きるか死ぬかの苦しみを抱えている人に対して、話を聞いて数十分で思い付いた助言というのは、失礼にもなるものだ。浅い。当人は四六時中そのことを考えているわけで、だから、そんなのとっくに思いついているしそれが出来ねえから困ってるんだろうが、となったりする。あるいは、伝えられていない情報もあるわけで、ただ具体的な対処法を考えるだけでは足りない事も多々ある。大体の場合、人の心は色々な、本当に色々な事情が絡み合っているので、全てを説明する事は不可能だ。そういう時、目先の話にズレ込むと、例えば僕が最近経験したものだと、僕が抑鬱でアルバイトなんか出来るわけがない、しかし両親がそれを責める、という話をしたら、どんな楽なアルバイトがあるかという点に持っていかれ、友人は派遣バイトのサイトを見てへ〜こんなのあるんだ、と楽しくなっていて、いやそこじゃねえんだわ……と虚しくなった。僕が話したかったのは鬱に理解のない両親のこと、延いてはこんな調子で就職など出来るわけがないのでは、という将来の不安などであり、アルバイトが出来ないのは僕がそれどころではないから、ただでさえいっぱいいっぱいなのにこれ以上重荷を増やしてたまるか、という思いからで、これなら楽なんじゃない?とかそういう問題ではないのだった。何というかままならねえなあ、伝わらないもんだなあ、と思った。コミュニケーションは難しい。なんだっけか、氷山の一角みたいな、他人の悩みマウンテンの頂上だけ見て思い付いた事をそのまま口にすると、相手に傷を負わせる事になる。隔絶を感じる。虚しい。この人健康だなあ、と冷静になる。羨ましい限りだよ。まあ深刻な話というのはどうしてもしにくいもので、大体わかりやすい事しか話せない。するとその事象に対しての具体的なアドバイスが飛んできて、憤りを感じたり脱力したり、まあそんな感じの負の感情に陥るわけだ。他人は他人だ。その事が肌でわかってきた。結局、自分を救えるのは自分しかいない。やっぱり、そうなんだ。悲しい事だ。孤独だ。人間は、すべて独りなんだ。自分がもう一人居たらいいのに、と思う。二人で暮らしたい。僕は扱われたい扱い方があって、扱いたい扱い方もあるのだから、どちらも自分なら満足感2倍である。たぶん、傷つく事も少ない。自分の事は時々嫌いだが、時々好きなので、なんかトータルで上手く行くんじゃなかろうか。自分への攻撃と弁護は同時に在るのだから。もうそれでいい。それで構わない。

 

昔の自分のことを思い出す。日記みたいなものを中学生の頃からつけているので、その頃からの軌跡は分かる。それまでは自我というものがあったんだろうか、果たして。思い出せないだけで、何かしら感じたり考えたりしながら生きていたとは思うが。高校3年生の時もかなりメンタルヘルスは真っ赤っか、な感じだったな。大学入って1、2年、特に1年生の時はむちゃくちゃ健康だった。すごいな。そう思うとやはり、躁鬱なのかなあ。躁というか、体感的にはただ「まとも」な時期がある、というだけだが。まともになりてえなあ。反復性鬱なんじゃないか?と思ったりする。ラミクタールって効いてんのかなあ。適合したので飲み続けているが、効果が分からん。初めての精神薬だから比較もできない。飲み忘れた時を思うと、あまり変わりはないような気がするんだが。

 

いつものことだが、思考の流れをそのまま写し取っているようなものなので、切れ目がなく、改行ができない。読みづらいことだ。