待たせる身が辛い

躁鬱 首の皮一枚大学生 レズビアン

2019/6/16

ふとパソコン右下に目をやった。6月16日。えっ6月16日って、私が去年彼女(だった人)と出会った日じゃん。

ついにこの日が来ていた。突然に出くわしたという感覚だ。とりあえず居ても立ってもいられず「記事を書く」を押した。いつも以上にノープランだ。

 

レズビアンの世間話というかぼやきとして、「彼女ってどこで出会うの」というアレがある。自分はかの人(なんとも呼べない、呼びたくないのでかの人と呼んでしまう)とインターネットで知り合った。しかもかなり特殊な知り合い方をしたと思う。参考にはならない。共通のもののファンでお互いビアン、という前情報を共有して友達としてのやり取りが始まった。そしてそれはかなり「遠かった」というか、ぼかすとうまく言えないなこれ、ううんと、私は付き合うまでかの人の本名も顔もハンドルネームもLINEも普段の書き言葉も知らなかった。付き合ってから全部知った。なかなかないよなこれ。

付き合い始めた日もどうせ来月やってくるからその前の話をすることとしようか今日は。

 

前提としてというか、自分は未練タラタラとまでは言わないが、なんだろう……。引き摺っている、というのは間違いない。かの人はまだ、というか当然のことだとも思ってしまっているが、ずっと自分の中に居る。確かに居る。頻繁に意識に浮かぶ。僕はスマホに残ったかの人との写真をほとんど消していない。手付かずだ。僕の友人には朝方に彼氏と別れのLINEをして二度寝する前にそのまま二人の写真やデートの時の写真をカメラロールから全消去し、LINEのトーク履歴もクリアしたという、なんというか……僕から言わすと「すげえ」人がいるのだが、まあ色々な価値観や感覚が会う友人だとしてもこと恋愛においてはかなり対極に位置する、という事があるらしい。

何を書こうか。どんな言葉を尽くしても不誠実というか、何も言ったことにならないというか、蛇足というか。

あなたへと渡す手紙のため
いろいろと思い出した
どれだって美しいけれども
一つも書くことなどないんだ
でもどうして、言葉にしたくなって
鉛みたいな嘘に変えてまで
行方のない鳥になってまで
汚してしまうのか

――米津玄師「vivi」

これを思う。これだなあと思う。正直言えば、僕はこの日にかの人に当てた文章を僕らが(僕らが、とまとめて呼ぶのは不思議な心地がする)出会った場所に投稿しようかと考えていた。かの人にしかわからないパスワードをかけて。

ただ、書けなかったのだ。何も浮かばなかった。思い出話をするのか?なんと言って始める?どう締める?お元気で?いつかまた会いたい?まだ大切な人だよとか言う?恐ろしかった。決められない。僕は1月のまま特にまだ何も決まっていない。今誰かにかの人と付き合っていた話をするとして、「まあ今となっては」とかいう総括で終わらせられないのでかなりフワっとした話になってしまうだろう。分からないから。この状態の僕がかの人に相対することはできない。まだ。あの時間をどう位置づけて意味づけていいのかがまだ分からない、僕の人生において。

 

語らないほうがいいこともあるのだろうか。野暮というか。「どれだって美しいけれども 一つも書くことなどないんだ」、まさに。美しい日々だったなあと一人で味わっておけばいいのだろうか。あぁなんかそんな気がしてきたな、割ときれいに僕は去れたのだから、そのままの方がいいのかもしれない。何度も何度も取り出して咀嚼しなおすのは、それを表にするのは、下品なのかもしれない。太宰も言っていた(おれは太宰に心酔しているので思想に取り入れがちだ)、その時に面白く読めたということが幸福感であり、それを先々まで持ちこたえなければ堪らないというのは貪婪、淫乱、剛の者であると。二日酔いを求めるのは不健康だと。うん、そうか。そうなんだなあ。そういうものなのかもしれないなあ。

「鉛みたいな嘘に変えてまで 行方のない鳥になってまで 汚してしまうのか」、うんうん。僕は別に手紙を書かなくても、よい。よいのだ。だって、書きたいこともないのだから。

確かなことは、僕がこの日を今年も覚えていた、何か言いたくはなった、ということか。